ayateck Local Stories

山形県酒田市の地域おこし協力隊・阿部彩人が、ローカルにある面白いものを、過去から現在そして未来へと続くストーリーを紐解きながらお届けするブログ。

地方の農村部にある家の呼び名、「屋号」や「通称」の謎に迫る!〜山形県酒田市・漆曽根1区編〜(例:そんざぶろ、そんざぶろいもぢ、あだしゃ、いんきょさま等)

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山形県酒田市の地域おこし協力隊、阿部彩人(@ayateck)です。

突然ですが、皆さんの家に呼び名はありますか?

江戸時代から続く昔ながらの農村地区には、家の呼び名があります。

山形県酒田市にある私の実家の呼び名は「そんざぶろいもぢ」。実家の本家の呼び名は「そんざぶろ」(初代が惣三郎さん)で、そこから分家して「家持ち」になったため「いもぢ」が付いて、「そんざぶろいもぢ」と呼ばれているとのこと。

私自身、高校卒業まで酒田で生活していた際には、家にそのような呼び名があることについて特に疑問も感じずに生きてまいりました。ですが、東京に出てきてみると、首都圏では家に呼び名があるということ自体がレアであることに気づきました。

なぜ、田舎の農村地区の家には、呼び名が必要だったのでしょうか。この呼び名の謎に迫るため、私の実家がある酒田市・漆曽根1区での例をもとに調べてみました。

漆曽根の成り立ち

まず、漆曽根という集落の成り立ちについて。漆曽根は北平田地区にある集落で、「酒田市合併村史 第三巻 東平田村 中平田村 北平田村」(平成13年・酒田市発行)によると、成り立ちは以下の通り。

弘安年間(1278〜88)曽根某なる郷士が、興野を開拓して広く漆の木を植えたことから、漆曽根という集落が出来たと伝えられている。

つまり、曽根さんという武士が荒れ地を開拓して広く漆の木を植えたことが、「漆曽根」と呼ばれる集落の成り立ちとのこと。弘安年間というと鎌倉時代。実に700年以上の歴史が漆曽根にはあることになります。漆曽根は南北に広く、約150世帯がある集落で、1区から5区までに分かれています。

なぜ、家の呼び名が必要だったのか?

江戸時代の農民にも非公式に苗字はありましたが、正式に名乗ることは禁じられておりました。また、農村部では同じ苗字の家が多かったこともあり、「◯◯さんの家」と呼ぶ際に、家の呼び名を使う習慣が定着していったと考えられます。

歴史が比較的古い家には、初代当主の下の名前を由来とした呼び名(例:「惣三郎」がなまった「そんざぶろ」)があります。この場合の呼び名を「屋号」といいます。漆曽根1区の場合、江戸時代中期(1700年〜1780年前後ごろ)までに建てられた家には「屋号」がある傾向があります。

江戸時代後期以降に建てられた家や分家に関しては、「通称」で呼ばれることや、呼び名自体が無いということもあります。

家の呼び名のパターン

家の呼び名を、由来別のパターンで大まかに分けると、以下の4パターンがあります。例は、今回調べてみた漆曽根1区の家の呼び名です。

①初代当主の名前が由来の場合(屋号)
例:「そんざぶろ」=初代当主の名前が「惣三郎(そうざぶろう)」
例:「じんぜん」=初代当主の名前が「甚左ェ門(じんざえもん)」
例:「よんだい」=初代当主の名前が「要太(ようた)」

②分家の場合(通称)
例:「そんざぶろいもぢ」=本家「そんざぶろ」の分家

③比較的新しい家の場合(通称)
例:「あだしゃ」=「新し家(あたらしや)」がなまった

④その他の場合(通称)
例:「いんきょさま」=初代がお寺から隠居された方
例:「ほりぎり」=「堀切」隣の区との境にある家

この中で、正式に「屋号」とされるものは、初代当主の名前が由来の①のみで、②〜④まではいわゆる「通称」になります。

それでは、それぞれのパターンを詳しく見ていきます。

①初代当主の名前が由来の場合

例:「そんざぶろ」=初代当主の名前が「惣三郎(そうざぶろう)」
例:「じんぜん」=初代当主の名前が「甚左ェ門(じんざえもん)」
例:「よんだい」=初代当主の名前が「要太(ようた)」

これが、「屋号」の由来として一番ポピュラーな形。初代当主の名前がなまって「屋号」になっているパターンです。

私の実家の本家である「そんざぶろ」の現・当主である阿部 優(ゆたか)さん(67歳)にお話を伺い、「そんざぶろ」のルーツについて探ってみました。優さんは婿入りをした方で、生まれは東平田地区の生石にある大平(そば屋の「大松家」がある集落)とのこと。優さんの奥さん・千恵子さんが、「そんざぶろ」の血を引いていることになります。

余談ですが、千恵子さんは、私が企画・出演しております、庄内弁ドラマ「んめちゃ!」第2話で漆曽根ままくらぶの1人として出演されています(薄紫色のシャツの女性)。そしてそのシーンのロケ地は漆曽根1区の公会堂です。


【庄内弁ドラマ】んめちゃ! 第2話「おら、酒田でアクションすっぞ!」(ロケ地:山形県酒田市など)

優さんのお話によると、以下の通り。

「そんざぶろ」の初代である阿部惣三郎さんは、今から300〜400年ほど前、江戸時代の1600年代後半から1700年代前半ごろの生まれではないかとのこと。惣三郎さんの生家は元々、漆曽根2区の「阿部建築」の場所にあり、農家でした。

千恵子さんの祖父・常太さん(明治29年前後の生まれ?)は次男で、分家して漆曽根1区の現在の位置に家を建てます。本来であれば、2区の「阿部建築」の場所にあった「そんざぶろ」が本家本元。1区の「そんざぶろ」(現在の優さんの家)は分家で、「つねた・そんざぶろ」と呼ばれており、常太さんが初代。ちなみに、常太さんは私・彩人の祖父である阿部幸吉の父親(つまり、彩人の曽祖父)になります。

▼「つねた・そんざぶろ」初代の阿部常太さん

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常太さんの兄(長男)は、明治時代の終わりごろに田畑を全部取られて、横浜の方に移住して行ったとの話。2代目は、常太さんの長男・運吉さん(幸吉の兄)。運吉さんは大正8年(1919年)の生まれで、第二次世界大戦終戦後はシベリア抑留から昭和24〜25年ごろに酒田へ帰ってきて、新井田川の護岸工事の人夫や、「阿部建設」の専務などの仕事をしていたとのこと。2代目・運吉さんのご子息の千恵子さんは一人っ子で、優さんが婿入りする形で3代目となっています。

優さんのお話を元に邪推すると、本家本元の「そんざぶろ」は漆曽根2区にあったのですが、その家を継いでいた常太さんの兄(長男)が横浜の方に移ったため、分家で「つねた・そんざぶろ」と呼ばれていた次男・常太さんの家が、結果的に本家の「そんざぶろ」として、現在も呼ばれているのではないかと考えられます。

ちなみに、優さんはロバート・デ・ニーロに似た男前な方なのですが、写真は苦手なのでNGとのことでして、残念ながら近影は非公開になります。

初代当主の名前が「屋号」になったその他の例を見ると、「甚左ェ門(じんざえもん)」から「じんぜん」になった形のように、なまって短縮系になっているのも良く見られる形です。「〜ざえもん」は「ぜん」に、「〜えもん」は「えん」になる傾向があります。最後に「ん」が付く屋号の家は、歴史の古い家だという話もあります。

初代当主の「要太(ようた)」から「よんだい」という屋号になった例に関しては、「ようた」から「よんだい」までの飛躍っぷりが気になる人もいるかもしれませんが、寒いので口をあまり開かないという東北地方の方言の様式に沿った形かと思います。「ようた」と口を大きく開かずに10回ぐらい言ってみてください。だんだん「よんだい」に近づいていくはずです。

②分家の場合

例:「そんざぶろいもぢ」=本家「そんざぶろ」の分家

分家の場合、正式な屋号ではないのですが、分家を意味する「いもぢ」(「家持ち」がなまった)が付きます。私の実家は、本家「そんざぶろ」の分家ということで、「そんざぶろいもぢ」と呼ばれています。

私の祖父である阿部幸吉は、漆曽根1区の「そんざぶろ」にて阿部常太さんの息子として生まれました。幸吉の兄・運吉さんが「そんざぶろ」の当主として跡を継いだため、幸吉は漆曽根の一番北に分家を建てて「そんざぶろいもぢ」の初代となったとのこと。私の父である阿部幸秀が2代目、私・阿部彩人が3代目になります。

▼「そんざぶろいもぢ」初代・阿部幸吉(大正12年・1923年生まれ)

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▼「そんざぶろいもぢ」2代目・阿部幸秀(昭和28年・1953年生まれ)

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▼「そんざぶろいもぢ」3代目・阿部彩人(昭和55年・1980年生まれ)

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③比較的新しい家の場合

例:「あだしゃ」=「新し家(あたらしや)」がなまった

江戸後期以降に建てられた比較的新しい家の場合、初代の名前ではなく、周辺住民から呼ばれていた通称が根付いている場合もあるようです。その例が、「新し家(あたらしや)」がなまった、「あだしゃ」。

「あだしゃ」現・当主の池田定芳さん(78歳、昭和14年・1939年生まれ)に、お話を伺いました。

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定芳さんのお話によると、定芳さんは5代目にあたり、初代は池田多平治さん(江戸後期の天保元年・1831年の生まれ)。当時、多平治さんが分家として新しい家を建てたということで、屋号ではなく通称として周辺住民から「新し家(あたらしや)」と呼ばれるようになったとのこと。それがなまって、「あだしゃ」という呼び名になったのです。

「新し家(あたらしや)」というぐらいなので、明治以降に建った家なのかなと私は思っていたのですが、想像以上に歴史が古く、江戸後期から現代までずっと「新し家(あたらしや)」⇒「あだしゃ」と呼ばれているのが興味深いですね。①のように初代の方のお名前が屋号になっている家は、もっと歴史のある古い家だということがわかります。

また、定芳さんがお持ちだった資料「あなたの家紋と家号」(北平田郷土史研究会)をお借りしました。北平田地区の全集落にある家の家紋と屋号をまとめた資料。これも非常に貴重な資料です。

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これを見ると、①の初代のお名前が「屋号」になっている家のみが、屋号として記載されています。それ以外の空欄の家(②〜④に当てはまる場合)は、すべて「通称」という扱いになるとのこと。「そんざぶろいもぢ」も「あだしゃ」も「通称」になります。

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④その他の場合

例:「いんきょさま」=初代がお寺から隠居された方
例:「ほりぎり」=「堀切」隣の区との境にある家

「いんきょさま」は、私の実家のお隣にある家。4代目にあたる石川卓司さん(50歳)と、3代目の石川俊悦さん(82歳)・房子さんご夫妻にお話を伺いました。

お話によると、3代目・俊悦さんの祖父が、漆曽根3区にある明照寺の42世当主・天隋さん(慶応2年・1866年生まれ)。私腹を肥やさず、お寺に大層貢献したので尊敬されていたとのこと。天隋さんにはお子さんが一人娘しかおらず、それが石川貞子さん(明治44年・1911年生まれ)。貞子さんは狩川出身の原田さんを婿に迎え結婚したのですが、そのお婿さんが急性盲腸炎ですぐに亡くなってしまいます。

その後、天隋さんは跡取りがいないということで、隠居して分家を作ります。それが「隠居様」と呼ばれる現・石川家の初代の始まりとのこと。貞子さんは、佐藤大吉さんという方の弟・元二さん(明治42年生まれ)を婿として2度目の結婚をし、その石川家の2代目となります。

「隠居様」と「様」付けで呼ばれることに関しては、石川家の皆さんは「様」なんて付けなくて「隠居」でいいのに、と思っているそうです。ですが、初代の天隋さんが明照寺の当主だった時代に、お寺に対して私財をすべて投げ打って貢献したということもあり、地区の方々から非常に尊敬されていたため「様」付けで呼ばれていたのでしょう。

▼4代目にあたる石川卓司さん(50歳)・留理さんご夫妻(上・左)と、3代目の石川俊悦さん(82歳)・房子さんご夫妻(下・右)

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また、区の境にある家が、堀を切るという意味合いで「ほりぎり」=「堀切」という通称で呼ばれているという例も。この「堀切」という呼び名は、他の地区でも見られるという話もあります。

農村部における家の呼び名の今後

私の実家は分家であるため正式な「屋号」ではなく、「そんざぶろいもち」は、あくまで「通称」になります。初代当主の名前が「屋号」になっている古い歴史のある家に対しては、憧れのようなものもありました。

今回、漆曽根1区の家の呼び名について調べたりお話を伺う中で、江戸時代から受け継がれてきた「屋号」や「通称」は、家の歴史やストーリーが詰まった財産であると改めて気付かされました。特に、私の実家の本家である「そんざぶろ」の歴史については、お話を伺ったことで(私の両親も含めて)初めて知ったことが多く、そして予想以上に歴史が長く入り組んだストーリーがあることがわかりました。あと、単純に自分の家のルーツを知るって面白い!と思いました。

「新しい家」という意味の由来から「あだしゃ」の家は歴史が浅いと思い込んでいましたが、初代が江戸時代後期ということで、思いのほか長い歴史を持っているということも意外な事実でした。

また、このような家の呼び名については、その家自身で自ら生んだものではなく、周りに住んでいる人たちが呼ぶことによって自然と定着していったということも注目すべきポイントです。それは、集落内でのコミュニケーションが密でないと、家の呼び名は生まれ得ないからです。

現に都市部では、隣に住む人の名前すら知らないことは多々あります。それに対して、少なくとも漆曽根1区に関しては、すべての家の世帯主の名前を知っています。それは、素晴らしいことです。この住民同士の関係性の中で漆曽根1区の人たちはこれからも暮らしていくでしょうし、それが今後も途絶えないことを私は望んでいます。

漆曽根以外の他の農村地区に関しても、家の呼び名を調べることによって見えてくる家の歴史、地区の歴史があるはずです。それを紐解きながら、その地区のストーリーを深く知っていき、ひいては、過去の歴史の上に現在があって未来へと続いていく日本の行く末を考えていくことにつなげていきたいと考えております。

今後も、そのようなローカルに根ざしたストーリーの数々をこのブログで紹介していきますので、お楽しみに。

せば、まず(では、また)。